晴林雨読願望 take /草苅 健のホームページ ![]() ![]() 勇払原野のコナラ主体の雑木林。ここは中下層をウシコロシの黄色が占めている |
一燈照隅 雑木林だより 新里山からの日常発信 |
地域活動15年の歩みとこれから 勇払原野の風土を共有する ![]() |
●コンテンツ一覧 ●日々の迷想 2023 & 2024& 2025 2021 |
first upload: Nov. 29 , 1998 last upload: May 04 , 2025 |
日々の迷想 ■5/4 旅の願望 ![]() ![]() 旅は最小限のに荷物しか持たないために所有物を切り離すことになり、自分の言葉を単純化することになり、かつ様々な人関係を生ずるために自分を変化させるのだという。なるほど、それはその通りかもしれず、さらにパワーアップする風景やモノもある。特に巨木、巨岩、わたしはいずれも神々しいものを感じる。今日読んだ「磐座(いわくら)に降りくる神に囀れる」という俳句に、広島厳島神社の弥山(2016 写真右)の大岩や沖縄の斎場御嶽(2011 セーファーウタキ=左)を思い出した。異界のような存在にビックリしたのだった。と同時に、股関節痛で登れなかった熊野古道のゴトビキ岩が頭に浮かんだ。是非動けるうちにリベンジしたいと心に誓ったのだが、家族はやめておいた方がいいと冷たい。秋には奈良の山の辺の道の北ルート(昨秋は南ルート35km)を歩くので、桜井市の磐座(いわくら)神社を拝みたいと思っている。旅への期待、その期待そのものが生きるうえで大きな励みなっている。 ■5/2 浜ボーフウ ![]() ![]() 先日、帰省したばかりの長女と家人とで前浜に浜ボーフウ採りに出かけた。4月半ばには見つけられなかったのに、小さいものでももう左の写真ほどになっていた。畳1,2畳の広さに群生しているところもあるなどから推して、地域の人は浜ボーフウをもう食していないのかもしれない。40数年前、泊りに来た義父に写真右のように酢味噌あえにしてご馳走したことがあった。日本海沿いの岩内の人だったが浜ボーフウは初めて食べたといい、「うまいもんだな」とちょっとお世辞のように感想を語ったのを思い出した。舌の肥えた長女は「うまい!」とひと声。小一時間ボーフウを採った後は、海岸から山に向かいついでにアイヌネギもひと掴み採った。すき焼き用の牛肉が用意してあり「アイヌネギの肉巻き」にする、と彼女は言っていたのだが出てきた料理はシンプルでとても上品な「アイヌネギの牛肉炒め」だった。材料を見て方針変更したのだという。素朴に炒めただけで双方のうまみが良く出ていた。 ■4/30 偉大なる林、生える木、そして木材や薪 物置の床と足回りの一部が腐ってしまい、基礎を持ち上げてちょっとしたリフォームを施した。腐れの原因は物置の壁に掛けたハンギングバスケットへの水やりだった。確かに実に長い年月、6月から10月上旬まであふれるほど水をやったので水浸しになったのは事実だが、乾くものと信じていたのが無知だった。だが逆の方に考えれば、水の処理を間違わなければ35年を優に無傷でこなせるわけだ。 ![]() 静川のカラマツログは28年経過で途中15年ほど前にログエンドの処理をして昨年は防腐剤を塗ったので、あと30年以上はいけるだろう。昨年、法隆寺を参観した折、南大門の千数百年前の太い支柱の根元がつぎはぎされていて、学芸員のような宿の専属ガイドによると、地面に触れる部分だけ腐ったので集成材のように継ぎ足してあるという。確かに陶器の金継ぎのように宮大工の腕によるのか、精巧に補強されていた。 木の生えた林は美しく四季を彩り、生える木は適宜利用され、木材となれば処理を誤らねば1000年ももつ。万が一倒れて腐った場合はバクテリアに分解され、土に還る。その途中、薪として熱をとれば貴重な暖房となって二酸化炭素となって大気に戻る。林や木や木材との日常的な付き合いを改めて振り返ることとなった2025年の冬から春。薪ストーブの小道具類を物置に仕舞った。明日から5月、春モードに代えていこう。 ■4/28 人生相談 実に様々な悩み相談である。お悔やみ欄とともに、毎朝読むのを欠かせなくなった。今や重点的に目を通す個人的なポイント。新聞紙面内の位置づけにおいてこの人生相談はいつの間にか急上昇してきたのである。その一方で政治や行政、経済の記事の重みランクが少しずつ下がった。世間から少しずつフェードアウトする歳のせいだろうか。それとも、政治や国際関係などはネットですませているからだろうか。 ところで新聞の相談で意外と多いのは夫婦、兄弟、親子という家族間の問題である。好きで一緒になった夫婦間の乖離もすごい。当然ながら離婚が増え、子供たちの犠牲はむごい。お互いの人格を無視したような事例に果たして自分なら耐えられるだろうか、と自問するときもある。横暴な夫がおしとやかで従順な妻の性格を蹂躙する…、人格破壊もでてくるのである。その逆もある。夫と妻、親と子、兄弟姉妹同士が、折り合いよく付き合うのはかくも難しいものかと溜息が出る。確かに、一度ひびが入ってしまった関係は戻りにくいから、お互いどう身を立てておくかが決め手になる。 恐らく、修養という言葉が縁遠くなった今日、この手の揉め事は減ることはなく増える一方だろう。挙句、裁判沙汰になって、事件発生時に罪を犯した側のこころの状態を調べるのに膨大な時間をかけるようなって久しいが、多くの人が病んでいると言えばそもそもことごとく病んでいると言わざるを得ない。 人の生きる道というのは、意識して求めていないとたどり着かない。明治期前の家制度というのも窮屈ではあったが秩序ではあった。英語のhomeを家庭と訳した明治後、変遷があり、今日の夫婦別姓の議論に繋がっている。大東亜戦争後、GHQは忌まわしく強い日本を崩壊させるためには家という仕組みをこわすために「核家族」を埋め込む必要があると考えた、とどこかで読んだ。親子だけがすむユニットを想定して集合団地の歴史は出来上がった。かつて人としての十全の感性は、基本ユニットとしての多世代同居の家で育まれた、ということか。残念ながらそこに自由はなかったということだろう。わたしたちの悩みは根深い。さて、どうするニッポン。 ■4/26 アイヌネギの一番パンチのある食べ方はやはり生(なま) ![]() ![]() ![]() 4/12の浜ボーフー、4/17 の川エビは収穫なしだったから、2025年の山海の珍味第一弾は4/20のアイヌネギと相成った。文字通り、里山に群生している最も手頃な時期。車を降りてすぐで5分も摘めばもう十分である。雑木林とこの群生をみて、見るからに元気になりそうと感じられた方は、正常である。 昨年の醤油漬けがまだひと瓶冷蔵庫にあったのでためしに朝に食してみると、新鮮さは意外にほとんど変わらず、きわめて美味のままでこれは意外だった。これは元気がでる…、ような気がする。ちなみにこの日収穫したアイヌネギは、生、ゆで、炒めの3種類を試してみると、やはりアイヌネギらしい味わいは3時間ほど醤油につけた生(なま)であった(下の写真左)。 残りは刻んでひき肉と合わせ2日寝かして20個の餃子にした。新得だったかの産品にニラを具にした冷凍食品「宝永の餃子」があるが、それに優るとも劣らない。家人と二人だから食後の口臭は誰にはばかることなく食することができるが、家人は翌日会合があるとかで、数個で止めていた。 今日は久々の好天だったから山仕事を休み昼前までTさんと物置を仕上げた。そのあと単身荷物を物置に戻し終えたら午後一時を回っていた。結構疲れたので今日も先日漬けたアイヌネギをいただこうかと思う。夕方、ためこんでしまった「もう要らないもの」を市のゴミセンターに捨てたら、気分が一新した。 ■4/24 物置の補修 昨年は屋根の葺き替え、台所の水道栓交換、下水道の修理など、不可欠な自宅メンテを少しずつ進めた。家を維持するのには色々補修はあるものだ。この春は、エアコンを装備し、薪小屋に薪を運び込む前には隣り合わせの物置の修理に着手した。ウッドクラフトのプロ・Tさんに頼み、そのアシスタントとして動いている。Tさんは腐れは部分的でほとんどは大丈夫使える、という。今日のふたりの作業の中で、ファサードの壁材の腐れは、どうも花のハンギングバスケットの水やりが原因のようだとわかった。さて今年はハンギングをどうしようか?水に漬からないようにHBを飾るにはどうする?やめるか?黒っぽい物置の板壁と薪とのコンビネーションで4,5か月モリモリに生きるHBは、わたしのメッセージでもある。やっぱりやろうか? 昨日は床を剥ぎ根太を補強し、今日は床材を二重に張替える準備、これも明日は完成できそうだ。こうして眼前の懸案をひとつずつ克服していく。これもまたちょっとした醍醐味だ。これがすめば、自宅へ薪を運びこみ、すぐさま、林に残った丸太をヤードに運び出して、薪割り薪積みが待つ。春の営み、本番だ。が、あいにく天候が落ち着かず時々雨が降る。 ■4/22 風土は本当に人心を方向づけるか 藤沢周平の手記を読んでいる。氏の『白き瓶 小説長塚節』を読んだ時もなぜか親和性が高い感性だと勝手に感じてきたが、『藤沢周平 遺された手帳』で確信に変わった。まるで寒さで固くなった心を温もりで融かすような雰囲気があった。しかし、それは万民が持つ感想かと問われれば、否である。地域固有の民謡への共感のような、郷土・山形の風土につちかわれた、貧しさとまじめさと、つましさなど諸々の、どちらかというともの悲しさにも通ずる因習のようなものの共有だ。自分を殺して生きざるを得ない、近親縁者に忖度しながら生きねばならない風土にちかいだろうか。「出る釘は打たれる」というのがわたしの土地の戒めとしてよく口にされたのだった。 『…手帳』は娘の遠藤展子氏によるが、実の娘だけに父・藤沢の心のひだを実に良くほどいてみせ、小説家として独り立ちしていく、遅咲きの父の足取りを描いていくのだが、手帳に書かれた本音のその描写が時に痛々しくわたしの琴線に響く。そうして読み進むうちに、上に書いた寒さで固くなったわたし自身の感性が再生したような思いがした。「詩人の方が文学的に純粋かもしれない」「詩人は”表れない”ことを前提にしないと書けない」「(詩は)知的で情熱的な作業だから」などとも書いている。これはわかるような気がする。そしてもうひとつ、藤沢周平氏は血液型がB型だとわかった。科学的根拠はわからないが、これはある、とうれしくなった。 ともかくいつのまにか寒さで固まっていた塊を、藤沢周平の手帳は融かしてくれたようだ。それによってわたしが郷里の桎梏を紐解くことをしないで来たある種の我慢が、一挙に決壊して思い出の洪水となった。そのおかげで、生活と人間関係の絶望的な貧困と歪みを正しく認識することとなった。とりまく桎梏とは家庭、世間、そして土地の風土であるが、自然はあくまで無言で囲むだけだった。近年まれにみる読書収穫である。 ■4/20 メール誤配信で予期せぬ功名 おとといの夜、新入会者へのガイダンスのようなメールを出した際、どうやら personal-deffalt というアドレスのフォルダーごと誤って送ってしまったようで、送信直後から誤配信ではないかと通知が相次いだ。1番手は旭川のYさん、2番手は米国のMさんだった。100件以上に訂正を出すのもどうかと考え、通知してくれた方にその都度お詫びの挨拶をすることにした。怪我の功名というのだろうか、久々のメールが一杯届き、思いがけず旧交を温めることとなった。中には、携帯である用件を話したかったが当方の携帯番号を忘れてできなかったという方もいらしたが、わたしの誤配信のメールの末尾に幸い携帯番号入りの署名があるのを見つけて、さっそく連絡をくれた方もいた。これが結構大切な、愉しみなやり取りができて、手間をかけてしまった方々には申し訳ないけれども、むしろ幸運だったような思いが残った。災い転じて…、か、不幸中の幸いか、怪我の功名か、など古来の言い回しが頭に浮かんだが、何が適当かはわからない。ただこういうことでまた縁が再生することがあるなあ、と思った。 ■4/18 雑木林から丸太を運び出す ![]() ようやく丸太を運び出す。Sさんの軽トラ、スズキ・キャリーを借りて。フットパスや林床には切り株もあるので慎重に運転。ヤードまで片道7kmしかないが、3往復しかできなかった。あと5往復は必要だ。来年秋以降に使う薪だから、ゆっくり行こう。薪ストーブライフを伐るところから始めると、とにかく仕事が次から次とある。 ![]() 林から厚真の田園地帯にでると、正面には真っ白い雪を抱いた日高ポロシリ岳と北トッタベツ岳のピラミッドが見えた。田園風景にももう緑が見え始めた。田園地帯の境界にはシカ柵がしっかり張り巡らされているが、秋まき小麦畑だろうか、エゾシカの群れがふたつ、悠然と草を食んでいた。境界の高さ2mの防シカネットと、農地の電気牧柵の両方をを越えて。 ■4/16 ネパールのスケッチ ![]() 札幌の社会人山岳会の重鎮でもあった故/ima - tomo さんからいただいた 昨年の年賀状は、震える指で手書きされた私信と、奥さまの挨拶が添えられて、まさにお別れのような、しかし、九つの病を背負った自分のように希望を失わないでがんばれよ、とい年寄り予備軍への激励の手紙でもあった。 何度か読み返したのでハードデスクの脇のよく見えるポジションにおいていた。昨日自分の終末をどのようにこなしていくかちょっと思案した時にもう一度開いてみた。1998年のガネッシュ・ヒマールのトレッキングで描かれたF8見開きのスケッチを印刷した2号サイズの絵がはいっていて、いつもは年賀状にプリントしていたものだ。が、これには年賀状じまいのように、生きている証に送ります、と書かれている。ちょうど、『藤沢周平 遺された手帳』を読んでいた時だったので、もの悲しさを帯びた人生の波長がわたしの琴線を揺らしていたためか、今回の読み返しはこれまでと違った心持で味わうこととなった。 ima-tomo さんとは組織的には別につながりもなく、山やオケラの人などが集う居酒屋で知り合い、その後、山や自然ばかりでなく生き方の師範のような付き合いをしていただいて半世紀を過ぎていた。孤高にも見える姿勢に、まわりにファンがいた。わたしは淡彩スケッチでも密かに私淑していて、坂本直行さんや安野光雅氏などプロと並ぶ当方のお手本だった。そういえば、札幌近郊の山や道東の春国岱などにふたりでスケッチ旅行に出かけたこともあった。今なら、歌(短歌)の薫陶も受けておきたかったと悔やまれる。亡くなる数か月前には受話器ごしで元気な病気自慢を聞いたばかりだった。生かされていることに感謝し遺された人生は大事に生きよう、それも前向きに、と静かに決意する再読だった。 ■4/14 老いては、妻にも従う 福祉国家としてつとに有名だったスウェーデンの大使か大臣が日本での講演で、「日本は福祉資源が豊かでうらやましい」と語ったことがある。もう20年以上前の話と記憶するが、当時、「福祉資源」は何を意味するのか、そしてやがて日本も深刻な介護の世界に至ることなどに、まったくピンと来てはいなかった。ところがこの頃は、高齢となった親たちの認知症や不調や介護で、たいがいは息子、娘など子らが主役となり、あるいは兄弟姉妹が中心になって世話をするケースが身の周りで目立ってきた。公的支援の前か並行してか、かつてスウェーデンの人が言った「福祉資源」がしっかりと効いているのだ。 わたしの世代もまったく他人事ではなく現実の話になった。子供たちの世話にはなるべくならないで終末を迎えたいという希望を、少し親の責任として考えている方も多いだろう。なにせ、若いころのように体が動かず頭の回転も落ち記憶も判断力も低下を自覚するようになると、目覚めの時など、漠然とした不安が湧くこともある。女性はその点、平均寿命も長いから元気でしっかりしていることが多いだろう。わたしなどもう諦めている。認知症なんか病気じゃない、自然だ、「老いてはアンタに従うよ、頼むぞ」。そんな声掛けは近い。 ■4/12 海岸を歩く ![]() 人というものはたまには山を仰ぎ、海と向き合うのが良いと思う。大いに気分が変わり、つかの間、気宇壮大となる。昨年の自家製生物暦を見ると、このころ、浜ボーフーを食べ、川エビを採っていた。今朝は山仕事の前に弁天と浜厚真の海岸と砂浜を歩き、山仕事を終えた夕方に川で川エビの準備をした。あいにく、弁天の浜は嵐と護岸工事だろうか、砂浜が変形していた。自然の海と川は、よくこういうことがおこる。(写真奥は日高) ■4/10 これが「氣」というものか 「氣」を学んでいたころ、敏感な熟達者は氣を発する樹木のそばに来ると、掌がむずがゆくなると言われていた。いつのまにかわたしも微妙な氣を感じるようになったが、今朝未明、掌が無性にむずがゆくなったので額にかざしたり掌をあわせたりしたところ、いわゆる氣を発しているようだった。熱による赤外線的なものかと思って体温計で計ると35.2度の平熱だった。 ■4/09 雑木林の一番花咲く ![]() 夏には歯を落とすナニワズである。茶褐色の落ち葉の中で、黄色は実に良く目立つ。雪解けが早かったせいで、未だかまだかと待ったが、なんのことはなく開花日は平年並みだった。しかし、新緑までは1か月以上ある。 この冬は、昨年の11月から12月にかけて折角準備した丸太が全数盗難にあったので、3月からさらにもう1シーズン分の除間伐作業を行ったが、それも今日で終わった。念のため、監視カメラをヤブの中にセットした。 ■4/08 歴史本の頭休めに「文士の料理店」など ![]() そんな折、勝目梓著『俳句の森を散歩する』と、鷹羽狩行著『名所で名句』は、いわば箸休めの休息となった。しかし、それが嵐山光三郎著『文士の料理店(レストラン)』にいたって、ああこのジャンルの違いは「勉強」と「娯楽」程の差があるなあと痛感した。「文芸の愉しみ」だ。ではアソビなのかと言えばそうではない。『文士…』は文士らの日常をすこしだけ踏み込んで普段知りえない裏話も描いて見せているし、描かれた幾人かの文士は、著者嵐山が編集者として会い、共に食事をしたり、会わずともレストランに赴いて実食していて、かつわたしなど趣味で料理を作る側にもちゃんと料理のツボがヒントとして提供される。 と、先ほどはこの著書の中の水上勉の項を読んでいたのだが、とりわけ自家菜園の禅食を書いた『土を喰らう』の文字を見て、こちらの頭の中には今、山野に出始めるフキノトウと北寄貝のかき揚げや、今週から取り掛かる川エビ、来週には出かけるつもりのアイヌネギと海岸の浜ボーフーなどが次々とが浮かんできて、なにやら読書どころではなくなってきたのだった。 ■4/06 雑木林の掃除、もしくはガーデニング ![]() 昨日の山仕事の後に、小屋周りを見渡すと…。里山というのは時間をかければこんな風景になる。理想とする空間、風景を創っていくというのは人生の喜びでなくてなんであろう。 |